伊藤博文の「ほうき(箒)」の異名とは?なぜ初代総理大臣がこのあだ名で呼ばれたのか

マニアな歴史

伊藤博文は、日本の初代内閣総理大臣として明治時代の近代化を主導した重要な政治家です。

伊藤博文の略歴は以下の通り。日本史に残る偉大な政治家です。一方で山口の下忍であった、という説も存在しています。なかなか謎の多い人物です。

年代(西暦・和暦) 年齢 出来事
1841年(天保12年) 1歳 周防国(現在の山口県)に農民の子として生まれる。幼名は利助(りすけ)。
1857年(安政4年) 17歳 松下村塾に入塾し、吉田松陰の教えを受ける。
1862年(文久2年) 22歳 高杉晋作らと共にイギリス公使館を焼き討ちする。
1863年(文久3年) 23歳 長州藩の密命でイギリスに留学。
1864年(元治元年) 24歳 高杉晋作の功山寺挙兵に参加。
1868年(明治元年) 28歳 明治政府で兵庫県知事に就任。
1871年(明治4年) 31歳 岩倉使節団の副使として米欧を視察。
1873年(明治6年) 33歳 工部卿に就任し、近代化政策を推進。
1885年(明治18年) 45歳 初代内閣総理大臣に就任し、第一次伊藤内閣が発足。
1892年(明治25年) 52歳 第二次伊藤内閣が発足。
1898年(明治31年) 58歳 第三次伊藤内閣が発足。
1900年(明治33年) 60歳 第四次伊藤内閣を組閣し、立憲政友会を結党して初代総裁となる。
1903年(明治36年) 63歳 枢密院議長に就任。
1905年(明治38年) 65歳 韓国統監に就任し、特派大使として韓国に派遣される。
1909年(明治42年) 69歳 韓国ハルビン駅で安重根により暗殺され死去。
 

伊藤博文は、日本初の内閣総理大臣として近代日本の基礎を築き、憲法制定や政党政治の確立など多くの功績を残しました。また、韓国統監としても歴史的役割を果たしましたが、その活動は評価が分かれる部分もあります。

また、彼には「箒(ほうき)」という異名がありました。なぜそのように呼ばれたのか、その背景について詳しく解説します。

なぜ伊藤博文は「ほうき(箒)」と呼ばれたのか

伊藤博文が「箒(ほうき)」と呼ばれた理由は、彼の多くの女性関係に由来しています。「掃いて捨てるほど女性がいた」という意味合いで、この異名がつけられたとされています。実際、彼の周囲には常に多くの女性が集まり、政界の宴席や鹿鳴館の舞踏会では、特定の女性と親密に過ごす姿が目撃されていました。また、伊藤自身も女性関係の多さを自慢し、「1000人の女性と関係を持った」と豪語していたと言われています。このようなエピソードが積み重なり、次第に「箒」と呼ばれるようになったのです。

彼自身、「1000人の女性と関係を持った」と豪語したと伝えられており、明治天皇から度々注意を受けたほどでした(もっとも、この明治天皇にも大室寅之助説があり、その面倒をみていたのが伊藤博文である、という説も存在しています)。また、鹿鳴館時代には、貴族女性に対するスキャンダルも報じられ、世間の注目を集めることもありました。

伊藤博文は非常に社交的であり、特に女性に対しては積極的でした。彼の女性関係は単なる個人的な嗜好にとどまらず、政治的な交流や人脈作りの一環として機能していたとも言われています。当時の政治家の多くは、社交の場として宴席を重要視し、芸者などを交えた交流を重視していました。伊藤博文もまた、そのような場を活用し、人間関係を広げていきました。

一説によると、「伊藤博文が女遊びで破産して家を失い、それがきっかけで今の首相官邸が作られた」という話もありますが、これは事実ではなくSNSなどで広まった誤った情報だ、とされていますが、私自身は真偽のほどはどうだろう?と考えています。

伊藤博文の結婚生活と女性関係

伊藤博文は生涯に2度結婚しました。

最初の妻である「すみ子」とは、家の事情で結婚しましたが、彼女を愛することができず、離婚に至りました。

2人目の妻「梅子」は、下関の亀山八幡宮の茶店で働いていた女性で、伊藤博文が政治的な対立で命を狙われた際に彼をかくまったことで知り合いました。二人は結婚し、その後も伊藤博文は政治家として活躍し続けました。

彼の女性関係は総理大臣になった後も続きましたが、梅子は夫の隠し子を引き取って育てるなど、寛大な態度を示していました。このような行動は、当時の日本社会において非常に珍しく、彼女の器の大きさが称賛されました。また、伊藤博文と関係のあった芸者たちが屋敷を訪れた際には、自らもてなすこともあったと言われています。こうした振る舞いから、梅子は「賢夫人」として評価され、夫の成功を支えた女性として高く評価されていました。

また、伊藤博文は地方に赴く際、その土地で最も有名な芸者ではなく、二番手や三番手の芸者を指名することを好んでいました。これは、目立ちすぎることなく、かつ周囲の人々の反感を買わないための策略であったとも考えられています。彼のこうした行動は、政治においても円滑な人間関係を築くのに役立っていたのかもしれません。実際、彼の師匠である吉田松陰は伊藤博文について、以下のような評価をしています。

  • 頭の回転が速く、行動力がある

    • 吉田松陰は、伊藤博文の機転の良さと実行力を称賛していました。彼は松陰の教えを積極的に吸収し、学んだことを実践に移す行動力があったとされています。
  • 外交や政治に適性がある

    • 伊藤博文は、英語や海外情勢にも関心を持ち、のちに岩倉使節団に参加して欧米の政治・経済制度を学ぶことになります。松陰は彼の外交的な資質を早くから見抜いており、その能力を高く評価していたと考えられます。
  • リーダーとしての素質を見込まれていた

    • 吉田松陰は、伊藤博文の将来を期待していたと言われています。松陰の門下生の中には高杉晋作や久坂玄瑞といった急進的な尊王攘夷派の人物も多くいましたが、伊藤博文は現実主義的で、実際に国を動かす立場にふさわしいと見なされていたようです。

伊藤博文の女性観と政治手腕

伊藤博文は女性との関わり方において、非常に器用であったと言われています。その姿勢は、政治の場における交渉術にも通じるものがありました。

例えば、地方に訪れた際には、その地域で最も有名な芸者ではなく、二番手や三番手の芸者を指名することで、周囲との関係を円滑に保とうとする姿勢が見られました。これにより、地元の有力者や商人層との関係を強化し、過度な注目を避けながらも地域との結びつきを強めることができました。このような柔軟な対応力は、彼が政治家として成功する要因の一つだったのかもしれません。

当時、明治政府の高官の中には、芸者や元芸妓と結婚した者も多くいました。木戸孝允、大久保利通、陸奥宗光、山県有朋、桂太郎などの政治家も、同様の関係を築いていました。

明治時代の伊藤博文の功績

伊藤博文は、日本の近代化に大きく貢献しました。

1871年 – 岩倉使節団に副使として参加し、欧米諸国の政治・社会制度を視察

明治政府の近代化政策の基礎を築くため、欧米諸国の憲法や議会制度を学ぶ。

この経験が後の大日本帝国憲法制定に大きな影響を与える。

1885年 – 初代内閣総理大臣に就任し、大日本帝国憲法の制定を主導

内閣制度を確立し、明治憲法の草案作成を指導。

1889年に大日本帝国憲法が発布され、日本の近代国家としての基盤を築く。

1895年 – 日清戦争後の下関講和会議で、日本代表として交渉にあたる

清国と下関条約を締結し、台湾・澎湖諸島を日本の領土とする。

賠償金獲得により、日本の産業発展の資金源を確保。

1905年 – 日露戦争後の講和交渉に関与し、日本の国際的地位を確立

アメリカでのポーツマス講和会議に影響を与え、日本が国際的な列強として認められる契機となる。 韓国統監として日韓併合の政策を進めるが、

1909年にハルビンで暗殺される。

彼は明治天皇からの信頼も厚く、天皇の前で椅子に座ることを許された数少ない政治家の一人でした。

伊藤博文ゆかりの博物館・史跡

伊藤博文に関する博物館や史跡は全国に点在しており、彼の功績をより深く知ることができます。

伊藤公資料館(山口県光市)

伊藤博文の生涯や業績に関する展示が充実しており、彼の直筆の書簡や外交交渉で使用された重要な文書が保管されています。館内には、伊藤博文の生家を復元した展示もあり、彼が育った環境を実際に体感することができます。また、彼の愛用品や写真、演説録なども展示されており、当時の政治的な動きを学ぶことができます。

東行記念館(山口県下関市)

東行記念館は、高杉晋作と伊藤博文の関係を伝える貴重な資料館です。幕末期の動乱の中で二人がどのような交流を持っていたのかを示す書簡や、高杉晋作が使用していた武具、伊藤博文が彼に送った手紙などが展示されています。館内には、高杉晋作と伊藤博文が共に写った写真や、当時の下関戦争の資料もあり、歴史的背景を詳しく知ることができます。

また、東行庵という高杉晋作の墓所にも近く、訪問者は幕末の志士たちの足跡をたどることができます。

慶雲館(滋賀県長浜市)

明治天皇が長浜を訪れた際に設けられた施設で、伊藤博文が命名しました。

また、彼の生家跡や旧宅なども各地に残っており、彼の足跡をたどることができます。例えば、山口県光市にある伊藤公資料館の近くには、彼の生家跡が保存されており、当時の暮らしぶりを垣間見ることができます。また、東京都の旧伊藤博文邸では、彼が晩年を過ごした住居の一部が公開されており、明治時代の政治家の暮らしを感じることができます。これらの史跡は、伊藤博文の業績をより深く理解するための貴重な場所となっています。

伊藤博文の異名「ほうき」のまとめ

伊藤博文は「箒」と呼ばれるほど、多くの女性と関係を持っていましたが、それは当時の社会的価値観や彼の精力的な性格が影響していたと考えられます。明治時代は、封建的な価値観がまだ根強く残っていた一方で、西洋化の流れの中で新たな社交文化が生まれつつありました。特に政財界の要人にとって、芸者や高級遊女との交際は単なる娯楽ではなく、社交の一環として認められていた側面がありました。そのため、多くの男性政治家が公私の場で女性と親密な関係を持つことは珍しくなく、一定の範囲内では容認される風潮がありました。伊藤博文の女性関係もまた、こうした時代背景のもとで形成されたものといえます。

一方で、彼は政治家として高い手腕を発揮し、日本の近代化を牽引した重要な存在でした。彼の女性関係に対する評価は意見が分かれる部分もありますが、彼の政治的功績が日本の歴史において大きな影響を与えたことは間違いありません。

また、彼の外交的手腕や国内政策の推進力は、現代の日本にも影響を与えており、明治時代の日本の発展を語る上で欠かせない存在です。

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