木戸孝允(桂小五郎)は、日本の武士、政治家であり、明治維新の元勲として、西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新の三傑」と称される人物です 。激動の幕末期に長州藩を代表する志士として活躍し、倒幕運動に尽力しました。維新後は新政府の参与、参議を歴任し、版籍奉還や廃藩置県などを推進、近代日本の礎を築きました 。本稿では、木戸孝允の生涯、特にその死について、様々な角度から考察していきます。
幼少期と青年期
木戸孝允は、天保4年(1833年)に長門国阿武郡萩城下呉服町(現在の山口県萩市呉服町)で、藩医和田昌景の三男として生まれました。幼名は桂小五郎 。8歳の時に桂家の養子となり、藩校明倫館で学びました。吉田松陰に師事し、尊王攘夷思想に傾倒していきます 。江戸へ遊学後は、剣術道場「練兵館」に入門し、その腕前は近藤勇でさえ恐れるほどだったと言われています 。
幕末の動乱と木戸孝允
ペリー来航以降、日本は激動の時代を迎えます。桂小五郎は尊王攘夷派として活動しますが、過激な攘夷思想には否定的でした 。長州藩の改革に尽力し、高杉晋作や伊藤博文のイギリス留学を支援するなど 、常に時代の先を見据えて行動しました。
禁門の変では長州藩が敗北し、責任者が切腹・処刑される中、桂小五郎は但馬出石に潜伏し、政局を見守ります 。その後、坂本龍馬の仲介により薩長同盟を締結 、第二次長州征討では幕府軍を撃退、長州藩の復権に成功します 。
明治維新と晩年
明治維新後、木戸孝允は新政府の参与、参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県など、近代国家建設に尽力しました 。岩倉使節団では全権副使として欧米を視察し、日本の近代化を推進しました 。しかし、台湾出兵に反対して下野、後に復帰するも健康状態は悪化していきました 。
病と死
木戸孝允は、若い頃からの不摂生が祟り、晩年は様々な病に悩まされていました。明治6年には馬車の事故で肩と頭部を強打し、その後に左足が麻痺、頭痛に悩まされるようになったという記録が残っています 。また、痔疾を患っていたことも分かっています 。これらの症状と、後年の病状との関連性も指摘されています 。
明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、木戸孝允は西郷軍討伐を願い出ますが、病に倒れてしまいます 。5月26日、京都の別邸で息を引き取りました。享年45歳 。死の直前には、大久保利通の手を握り締め、「西郷もいい加減にせんか」と、明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を残したと言われています 。
桂小五郎の死因の考察
桂小五郎の死因については、「胃病」との記載があったことから、胃癌だったのでは?という説が存在します。また、一方では近年になり新説が登場しています。2020年10月15日の読売新聞オンラインの記事に、以下のような記載があります。
長州藩出身で「維新の三傑」の一人、木戸孝允たかよしが病死する5日前の「診断書」が見つかり、諸説ある木戸の死因に改めて注目が集まっている。これまでは「胃がん」説を唱える研究者が多かったが、「大腸がんの肝臓転移」とみる見解も出ている。「木戸顧問容体」と題した診断書が見つかったのは今年7月。一坂太郎・萩博物館特別学芸員が東京の古書店で発見し、購入した。
1877年(明治10年)5月21日に明治天皇の侍医を務めていた3人の医師の連名で書かれたもので、〈肝部ノ腫脹しゅちょうハ弥いよいよ増大シ〉と肝臓の腫瘍の悪化を記し、〈遂ニ危険ニ進ミ不容易よういならざる容体〉としている。木戸は5日後の26日に亡くなった。
死因を巡っては、明治政府のお雇いドイツ人医師ウィルヘルム・シュルツが〈極めて難治の胃病〉と診断したことが『明治天皇紀』に記され、これを根拠に胃がん説が広まった。
木戸と近かった長州藩出身の軍人・三浦梧楼ごろうも1925年(大正14年)出版の自身の回顧録で〈(木戸は)全く胃癌いがんにて死去したのである〉と書いた。
一方、木戸の死去を報じた明治10年5月28日付読売新聞は、肝臓の腫れ物(洋名カンクル)の病にかかったと日本の医師の診断に沿った記事を載せ、同年6月2日付東京日日新聞も〈遂ニ肝臓肥大ノ症トナル〉とした。
今回見つかった診断書について、2018年に『小説 木戸孝允』(鳥影社)を著した京都府在住の内科医、中尾實信よしのぶさん(80)は、膿うみと血が混じった便が出ていたことや、肝臓の腫れの悪化が記述されていることに注目。明治9年夏頃から下痢が続いていたと木戸が日記に書いていることと併せ、「死因は大腸がんの肝臓転移」とみる。
中尾さんは「肝臓と胃は近く、腫れていると触診で間違える可能性がある。継続的に診察していた日本の医師の方が正確に判断できたと思う」と推測する。
診断書を発見した一坂さんは「以前に木戸の評伝を書いた時は胃がん説を疑わなかったが、新史料をもとに議論が深まることを期待したい」と話している。
従来一般的だった胃癌説に加え、新たに「大腸がん転移説」が議論されるようになったようです。
木戸孝允が残したもの
木戸孝允は、明治維新の立役者として、近代日本の礎を築いた偉大な政治家です。その功績は、現代の日本にも大きな影響を与えています。彼の死は、明治政府にとって大きな損失でしたが、彼の遺志は、その後も多くの政治家たちに受け継がれていきました。
結論
木戸孝允は、激動の時代を生き抜き、日本の近代化に大きく貢献した人物です。その生涯は、波乱に満ちていましたが、常に時代の先を見据え、行動し続けました。彼の死は、多くの人々に惜しまれましたが、その功績は、今もなお、私たちに語り継がれています。
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